無意識の心理-深層心理学-深層心理学の方法-了解法(2) [無意識の心理-深層心理学]

正統派の心理学においても、了解すなわち主観的な解釈が
行われていることは決して少なくない。

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ゲシュタルト心理学の創始者の一人となったコフカはいう。

《今、われわれがコトバの通じない南アフリカの黒人の怒りの
発作を観察することを考えたとき、われわれは、ただ土人の
<外部に現れた行動>を記述することに限らなくてはならない
ものなのか。
彼は怒ってその相手の人間に向かっているといっては
ならないのか。》

そして、コフカは動物の研究の場合でさえも、外部からの
観察(機能概念)だけにかぎるべきではなく、その内部の
体験(叙述概念)を問題にするのに神経過敏になる必要は
少しもないといい、行動主義者は客観的であろうとするあまり、
最も大切な所をすててしまう誤りをおかしているとのべた。

彼は決して了解をもっと心理学の方法としようとしたのではないが、
《黒人が怒っている》という叙述の場合にみられるように、
主観的にその表情の意味を了解してよいと考えている
ものであろう。

精神分析は了解を方法とする。

それは一種の了解心理学である。

アレクサンダーはこう書いている。

《精神分析は昔の心理学と違って、精神状態を理解する
普通の方法-常識-を洗練し、体系化したものである。
その主たる手段は自分を相手の地位においてみる
共感の方法である。
他人の動作、顔の表情、声の調子、コトバの内容を観察すれば、
その心に起っている何らかの考えが得られる。
観察者と観察される相手とは共通性をもっているから、
そこに了解が可能である。
つまり双子が人間性をもつという共通性が本質的であり、
それは心理学によって、はじめてとらえられる。
物理現象では、たとえばテーブルの上で動く二つの
球にしても、その理解は目にみえる範囲だけで、
つぎにどうなるかは、ある同一条件のもとで必ず転がる
球を以前にみたことがなければ分からない。
しかし、人間の場合は自己観察によって行動の解釈ができる。
つまり、同じ状態での自分の反応をみれば、他人の動機が
わかるのである。》

精神分析で、分析する人と、される人が、何回も話しあい、
共感し合うことができるようになることが必要とされるのは
このためである。

外国への旅行者が、その国のコトバができても最初は
その国民の心理は全く了解できず、どういうつもりか、
どんな感情をもっているか分からないが、しばらくすると
その行動の意味を了解できるようになる。

これと同じことが精神分析で要求されるのは、
精神分析が了解心理学的方法を用いるからである。

了解という方法を非科学的だときめてしまうことは
できない。

われわれは、観察をするとく眼をつかう。

しかし、知覚は眼の網膜像だけで生ずるのではない。

それは脳髄の後頭葉にある視覚中枢に伝えられるが、
それだけで知覚が構成されるものでもない。

脳髄全体が関係する。

感情も加わるし、過去の経験も入り込む。

われわれはパーソナリティー全体で物を観察する。

自然を観察するときには、なるべくパーソナリティーを
排除しようとするが、人間の観察では、むしろ、これを
積極的に使おうというのが、了解心理学や、その一種である
精神分析である。

パーソナリティーは、一方において、個人個人によって
ちがうが、他方において共通の反応を示す。

《あの女性は何度も男にだまされたので邪推しやすく
なったのだ》

といったような観察は一人の個人だけの判断ではないからである。

しかし、これがほんとうかどうか。

了解とか解釈が正しいという証拠はどこにあるのか。

フロイト学派のうちには了解とか解釈という方法を
用いながら、これを自然科学の方法と同じと考え、
解釈の正しさについての反省を欠いて勝手な
解釈を行うものが少なくない。

これが精神分析を科学と緑のないものにする原因になりやすい。

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