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無意識の心理-深層心理学-連想法(2) [無意識の心理-深層心理学]

フリンクは、友人に、ある品物を売る店を教えてくれと頼まれ、知っていると答えたものの、なんという名の店だったか、どうしても思い出せなかった。
数日後にその店-むろん、よく知っている店だが-の前を通って、その店の名をみて〈ポンド〉という名だったことを見出した。
なぜ、こんなことを忘れていたのか。
この点をあきらかにするために、彼は自分自身の分析をやろうと考えたのである。

〈ポンド〉というコトバに注意を集中して思い出したことは〈ポンド博士〉という人であって、この人はある野球のチームでピッチャーをしていた。
それから、ポンドが池であるため、〈インディアン池〉という池を思い浮かべたが、これは彼がコドモ示談につりに行ったところである。
それからフィッシャーだが、発音は魚を釣る人という人のことを考えたが、この人は別のチームのピッチャーであった。

このように連想をつづけ、頭に浮かぶものを記録してゆくと、〈ポンド・エキス〉というものが出てきたが、これがハマメリスという植物からとったクスリを含んでいることに気づいた。
これから、コドモの頃、野球のピッチャーをしたとき、ハマリメリスをとって、これで腕をマッサージして球を投げたことを思い出した。
タグ:精神

無意識の心理-深層心理学-連想法 [無意識の心理-深層心理学]

精神分析が精神の表出から、心のなかの傾向をさぐろうとするものだとすると、どんな方法で、その原因をさぐったらよいか。

催眠法はその一つの方法である。

フロイトは最初これを用いていたが、のちに、これをすてて<自由連想法>を用いるようになり、今日、これが精神分析の最も重要なものになっている。

分析される人を長イスに横にして、目をを閉じさせ、緊張をなくさせ、意志的態度、批判し判断するような態度をすてさせ、しかも、自分で自分を観察できなくなる状態-睡眠または半睡状態-におちいらぬようにしておいて、頭に浮かぶことをつぎつぎ、いわせてゆくのである。

われわれは、ぼんやりとしているときには山→川→海→太平洋→大西洋→ヨーロッパ→フランス→パリ→エッフェル塔→東京タワー・・・というように、目的もなく連想してゆくが、このような自由連想を行ってゆくと、心の中のシコリになっているコンプレックスに到達するというのである。

次回の更新で記載する、フリンクの例は連想法を説明するように適当なものです。
それは、彼自身の自己分析です。

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深層心理学の方法-表出法・投射法(4) [無意識の心理-深層心理学]

フロイトの意味の表出はその後<投射法>と称される、精神内部の探求法を生んだ。

これは、はっきりとしない形のものを見せて、どんなものに見えるか、ということから感情傾向をつかむとか(ローハッシャ検査)、コドモに遊びを行わせて、この遊びの仕方から、どんな感情が心のなかにかくされているのか、を知ろうとするとか(ブレイク・テクニック)、上のような絵をみせて、それについての物語をさせ(T・A・T)、これを通じて無意識の動機をさぐろうとするものである。

この場合<投射>というのは、心の内部の傾向が、知覚、判断その他の行動のうちに投げ出され、これらに影響を与えるという意味であって、複雑な表出に他ならない。

投射法は一種のテストであって、刺激を与えた結果の反応をみようとするものであるから、その点では、夢とか言い間違いとか、神経症の症状とかいった、自然的な反応を扱うフロイトの場合と違う。

しかし、フロイトの方法を一種の投射法と考えることも不可能ではなかろう。

深層心理学の方法-表出法・投射法(3) [無意識の心理-深層心理学]

精神分析がその個人だけの表出を扱うことは、一般性を全く問題にしないのではない。

<心の深層のシコリ(コンプレックス)は意識的の行動に表れる>という現象は一般的なものである。

もし、多くの人々が主張するように精神分析が徹頭徹尾、個人的なものだけを扱うものならば、文学に類したものとはなっても、科学とはなりえないであろう。

第二に、いわゆる表出法では、怒り→怒りの表出の場合にしろ、おどそうとする意図→怒った顔の場合にしろ、原因→結果の関係は単純である。

そして、原因としての感情や意図がなくては表出は生じない、原因があれば必ず、多かれ少なかれ、表出がみられる。

ふと<畜生!>というようなコトバを発する場合も、このような感情の表出であろうし、ふと口をすべらせて悪口をいう場合、ふと言い間違いをする場合、ふとやり損なう場合、ふと忘れる場合などは、生理的な変化を起こす表出ではないが、同様に解釈できないわけではない。

精神分析で扱う表出は、一般には、もっと複雑なものである。

人間の行動、知覚、記憶といったものに、感情の影響が、どう表出されるかということである。

第三に、これまでに心理学で扱われた表出では、原因が当人に意識されている。

他人をおどかそうとして、こわい顔の表出をする場合、おどかそうとする意図も、こわい顔も、本人に分かっているし、恐れたときにヒトミの大きくなるという場合には、ヒトミが拡大した結果は意識されぬが、原因としての恐れは意識されている。

フロイトは原因が意識されていない場合、または、少なくともその瞬間には意識されていない場合をも問題としたのである。

無意識の心理-深層心理学-深層心理学の方法-表出法・投射法(2) [無意識の心理-深層心理学]

上に述べた二つの例では、奇妙くせの原因、おかしな遊びの動機は
心の内部の傾向または緊張であった。

この内部の傾向が遊びに表出されていた。

そして、外部に現れたものから捕えることは、心理学や精神医学では、
つねに用いられているものである。

とくに感情を研究する場合の<表出法>(ヴント)は、われわれが感ずる
怒りとか恐れ、つまり意識の事実としての感情を、その表出-脈が速くなるとか
呼吸があらくなるというような-によって研究しようとしたのものである。

ウソ発見器はこのような表出法の利用である。

しかしながらフロイトが精神の内部を表面に表れたもので捕えようとするときの
<表出>はヴントの<表出>とは、いくぶんかちがっている。

第一に、フロイトの場合の表出はその個人特有の表出である。

フロイト心理学は、だれにも適用できる法則を見出そうとする一般的心理学
ではなく、個人特有の性質や反応を明らかにするパーソナリティー心理学
だからである。

性的習慣に対する不安が奇妙なくせに表出されたり、母をとられたくないという
願望がミドリの虫を殺してその一部を食べるという奇妙な行動を生ずるのは、
全く個人的なもので、他人にはみられることである。

無意識の心理-深層心理学-深層心理学の方法-了解法(2) [無意識の心理-深層心理学]

正統派の心理学においても、了解すなわち主観的な解釈が
行われていることは決して少なくない。

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ゲシュタルト心理学の創始者の一人となったコフカはいう。

《今、われわれがコトバの通じない南アフリカの黒人の怒りの
発作を観察することを考えたとき、われわれは、ただ土人の
<外部に現れた行動>を記述することに限らなくてはならない
ものなのか。
彼は怒ってその相手の人間に向かっているといっては
ならないのか。》

そして、コフカは動物の研究の場合でさえも、外部からの
観察(機能概念)だけにかぎるべきではなく、その内部の
体験(叙述概念)を問題にするのに神経過敏になる必要は
少しもないといい、行動主義者は客観的であろうとするあまり、
最も大切な所をすててしまう誤りをおかしているとのべた。

彼は決して了解をもっと心理学の方法としようとしたのではないが、
《黒人が怒っている》という叙述の場合にみられるように、
主観的にその表情の意味を了解してよいと考えている
ものであろう。

精神分析は了解を方法とする。

それは一種の了解心理学である。

アレクサンダーはこう書いている。

《精神分析は昔の心理学と違って、精神状態を理解する
普通の方法-常識-を洗練し、体系化したものである。
その主たる手段は自分を相手の地位においてみる
共感の方法である。
他人の動作、顔の表情、声の調子、コトバの内容を観察すれば、
その心に起っている何らかの考えが得られる。
観察者と観察される相手とは共通性をもっているから、
そこに了解が可能である。
つまり双子が人間性をもつという共通性が本質的であり、
それは心理学によって、はじめてとらえられる。
物理現象では、たとえばテーブルの上で動く二つの
球にしても、その理解は目にみえる範囲だけで、
つぎにどうなるかは、ある同一条件のもとで必ず転がる
球を以前にみたことがなければ分からない。
しかし、人間の場合は自己観察によって行動の解釈ができる。
つまり、同じ状態での自分の反応をみれば、他人の動機が
わかるのである。》

精神分析で、分析する人と、される人が、何回も話しあい、
共感し合うことができるようになることが必要とされるのは
このためである。

外国への旅行者が、その国のコトバができても最初は
その国民の心理は全く了解できず、どういうつもりか、
どんな感情をもっているか分からないが、しばらくすると
その行動の意味を了解できるようになる。

これと同じことが精神分析で要求されるのは、
精神分析が了解心理学的方法を用いるからである。

了解という方法を非科学的だときめてしまうことは
できない。

われわれは、観察をするとく眼をつかう。

しかし、知覚は眼の網膜像だけで生ずるのではない。

それは脳髄の後頭葉にある視覚中枢に伝えられるが、
それだけで知覚が構成されるものでもない。

脳髄全体が関係する。

感情も加わるし、過去の経験も入り込む。

われわれはパーソナリティー全体で物を観察する。

自然を観察するときには、なるべくパーソナリティーを
排除しようとするが、人間の観察では、むしろ、これを
積極的に使おうというのが、了解心理学や、その一種である
精神分析である。

パーソナリティーは、一方において、個人個人によって
ちがうが、他方において共通の反応を示す。

《あの女性は何度も男にだまされたので邪推しやすく
なったのだ》

といったような観察は一人の個人だけの判断ではないからである。

しかし、これがほんとうかどうか。

了解とか解釈が正しいという証拠はどこにあるのか。

フロイト学派のうちには了解とか解釈という方法を
用いながら、これを自然科学の方法と同じと考え、
解釈の正しさについての反省を欠いて勝手な
解釈を行うものが少なくない。

これが精神分析を科学と緑のないものにする原因になりやすい。

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無意識の心理-深層心理学-深層心理学の方法-了解法(1) [無意識の心理-深層心理学]

性的の習慣が原因でシカメツラが生じたというのは、
実験でたしかめたわけでなく、多くの似た例を集めた結果、
結論を出したものでもない。

自分の気持ちから推察して、原因結果のつながりを
考え出しているのである。

日常、われわれは、あの人が自動車にのりたがらないのは、
ひどい交通事故を経験したためだ、というような判断をする。

他人も自分と同様の考え方、感じ方ををするという
前提にたって判断をする。

むろん、自然科学の場合と同様な仕方で、
この因果関係を決定しようとする人もあるであろう。

自動車事故の経験をした人の例を集める。

そのうちから、自動車にのりたがらぬ人が
何パーセントいるのかを調べる。

全くそんな経験のない人のうちで、自動車にのるのを嫌がる者が、
何パーセントあるのかを調べる。

自動車事故をしたほうが、自動車にのるのを恐れる確立が
多いという結論が出るかもしれない。

われわれの統計のできない、ただ一回の事件について、
主観的に自分をあいての位置において原因を考えるのが、
普通であるが、この共感とか了解ということは、
自然科学では極力排するべきものとされているものがある。

ところが、人間心理を明らかにするためには、むしろ共感とか
了解を積極的に用いるべきだという主張がある。

ディルタイシュプランガーなど<了解心理学派>である。

自然は説明されるが、精神生活は了解されるべきものと
彼らは考えた。






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無意識の心理-深層心理学-心理因果(8) [無意識の心理-深層心理学]

<木の下ではなぜぬれないか>と考える。

これは雨のしずくのおちる方向や速度、
木の葉の位置、自分のいる位置などで説明される。
(この場合は自然科学的因果であって、
時間の座標を逆にすることによって原因=結果を逆にすることができる)

しかし、べつに、<雨にぬれないのは、おじいさんが木を植えたからだ。
この土地はあまり肥えないが、とくべつに注意してこれを植えたので
あって、そのために雨にぬれないのだ>
と説明することもできる。

おじいさんが木を植えたことが原因で、
雨にぬれないことが結果である。
(後者の場合の時間は、一定の<向き>をもっていて、
逆転することはない。)

この二つの説明はレヴィン以前から自然科学的説明
歴史的説明と呼ばれていたものであって、
すべての科学にはこの二種類の因果的説明が
ふくまれている。

自然科学においても数学、物理、化学のような
場合を抜けば、歴史的説明が全くないわけではない。

天文学でも、一つの天体がいつ、どこにあったかと
いうような、法則に還元できない側面があるし、
地質学や生物学のような科学では、
歴史的側面は、さらに重要なものとなる。

法則は存在するがジュラ期はただ一回かぎりだし、
ブロントサウルスは地上にふたたび姿を
現すことはない。

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無意識の心理-深層心理学-心理因果(7) [無意識の心理-深層心理学]

母から自分を遠ざけたミドリの虫-普段は学校の先生、このときは父親-を殺して、
一時的に、先生や父と同様に力強い気分を味わうこと、ここに、その遊びの意味があった。

むろん、虫の頭を切ったり、残りを地面に埋められたことなども、
もっと追求してゆくことができよう、とフルーノルアは付け加えている。

偶然的で無意識だと思われた子供の行動に、心理的の原因があったわけであり、
精神的の因果関係が、これで明らかにされたというのである。

フロイト学派の人々は、フロイトが精神現象をこのように
因果的に説明したと信じ、新しい科学の分野をひらいたと考える。

しかし、このような場合の因果関係は、自然科学の因果関係と同じ
ものであろうか。

重要な点は、この場合には、原因=結果の因果関係をくりかえして
検証できぬことでもある。

<このような過去があったために、現在はこうなっている>というわけであるが、
それは一回だけおこったこと、くりかえすことのできぬこと、
すなわ歴史的因果(レヴィン)である。

レヴィンは原因=結果について歴史的概念と体系的概念を区別した。


無意識の心理-深層心理学-心理因果(6) [無意識の心理-深層心理学]

このような連想をもとにして、フルーノアは次のような解釈をする。

それは、バブティスマをまねて、強い人間を演じただけだというのである。

軍国時代にコドモが、台にのって、手を望遠鏡の形にしていたことがあった。

三笠艦上の東郷代将をマネたのである。

それと同様のもの(後にのべるように、自分を自分が理想をする人物と
<同一視>する現象とみなしうるというのである。

コドモは、強い人物の話しを読んで、自分がこのような人間に
なったと想像することがあるが、ときには行為にまで現れることがある。

このコドモは、バブティスマのヨハネを尊敬して、
このマネをして、バッタを食べるといった行為まで
行ったのであった。

なぜ、この奇妙な遊びが、夏休みだけに行われたか。

彼の告白によると、こうである。

コドモ時代に、彼はおくびょうで怖がりだった。

そして、お母さんにいつも、くっついていた。

ほかの人に会うのは、いやだった。

父も、こわかった。

学校の先生にも、恐怖と嫌悪を感じていた。

夏休みは、本当に楽しかった。

学校がなく、お母さんと長い間、いっしょにいられたからである。

ところが、その夏-父がひどい病気にかかった。

こんなことは、それまでにないことだった。

数週間、彼の母は父の側を離れなかった。

彼女は、いつも部屋のなかで、父の看病をしていたので、
彼は、母の顔さえ、ろくに見れなかった。

父の病気は悲しかったが、せっかくの休みに母をとられたことは、
彼をいらいらさせた。

たった一人で時間を過ごすのは、退屈で退屈で、どうにもならなかった。

このとき、彼は、バッタ遊びを思いついたのである。

こう解釈すると、最初、わからなかったコドモのふしぎな
行動も了解できる。

フルーノルアは結論した。

この夏、このコドモは父-この父は学校の先生と同様、権威のある怖い存在だった-
にかわって、彼が心から望んでいた母の愛情を独占したかった。

現実はそれを許さなかった。

彼は、劣等感を感じ、みすてられたという印象をもった。

そこで、周囲の状況も手伝って、あのような遊びを
やり始めたのである。
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